デビュー年に16勝した気鋭の競馬調教師 宮田敬介はなぜ「馬」ではなく「人」を育てるのか?

2022年1月14日

デビューの年に16勝

競馬といえば馬とジョッキーに注目が集まりますが、裏方として不可欠な存在が調教師。競走馬のオーナーから託された馬の世話をしながら、レースで速く走ることができるように鍛えるのが仕事です。調教師は現在日本に195名いて、それぞれの厩舎で馬を預かっています。

その中で、今注目されている調教師が宮田敬介さん。約100の厩舎がある美浦トレーニングセンターで2020年4月、39歳で開業したばかりの新人ながら、1年目、宮田厩舎の馬が16回、1位になりました(これを16勝と表します)。

1年目に16勝は、とんでもない数字です。たとえば、2020年に勝利数の多かった調教師の上位3人、矢作芳人さん(53勝)、友道康夫さん(50勝)、堀 宣行さん(48勝)が新人の年、それぞれ15勝、3勝、6勝でした。

前述したように、調教師はオーナーから馬の管理を任される立場で、オーナーは信頼できる調教師を選びます。当然、実力の分からない新人のところには、強い馬が来ません。その環境で、競馬界トップクラスの調教師の新人時代を上回る成績を残して、脚光を浴びたのです。

しかし、宮田さんは調教師を目指して厩舎ではたらき始めた20代のころ、挫折しかけたことがあります。「俺は馬に乗らない方がいいんじゃないか」と思い悩み、1年半、馬の世話をするだけの日々を過ごしました。それは、「人生で一番つらい時期」でした。

宮田さんはなぜ、どん底から這い上がることができたのでしょうか?

競馬少年の夢

1980年、茨城県日立市で生まれた宮田さんは、熱心な競馬ファンだった父親の影響で、少年時代から競馬が好きでした。

「昔はテレビで競馬中継がやっていなかったので、ラジオでよく応援してましたね。父が応援する新馬のデビュー戦を観に行ったこともあります。一番遠くに行ったのは、新潟競馬場かな」

今でも忘れられないのは、1990年12月23日に開催された有馬記念。「怪物」と評されたオグリキャップのラストランを一目見ようと、17万7779人の観衆が中山競馬場に詰めかけました。テレビ放送されたこのレースを自宅で観戦した宮田少年は、割れんばかりの大歓声の中で有終の美を飾ったオグリキャップに鳥肌が立つような感動を覚えます。このころにはすでに、「将来、競馬の世界ではたらきたい」と思っていたそうです。

当時、大流行していた競走馬育成ゲーム『ダービースタリオン』をやりこみ、中学生のころには「馬をレースに向けてつくり上げていく仕事に魅力を感じて」、調教師を夢見るようになりました。高校生になっても夢は変わらず、目指したのは獣医学の勉強ができて、馬術部のある大学。いくつかの大学を受験したなかで、麻布大学の獣医学部動物応用化学科に進みます。

実はそれまで馬に乗ったことがなかったのですが、馬の知識や馬への情熱には根拠のない自信があり、馬術部に入部してからすぐに馬の扱いに慣れました。乗馬も得意で、全日本学生馬術大会にも出場したそう。馬が身近にいる生活を通して、馬への想いがより深まったと言います。

取材後、カペラステークスで宮田厩舎初の重賞制覇を達成したダンシングプリンス

「馬は本当に繊細で、ちょっとしたケガや病気で死んでしまいます。学生時代、何頭も馬が亡くなるのを目の当たりにしました。いち競馬ファンの時は知らないことでしたが、実際に馬の命に関わる現場に立ち会うことで改めて馬に携わることの責任を感じましたし、馬は本当に丁寧に守っていかなければいけないと学びましたね」

名門ファームに就職

大学3年生の夏休み、牧場実習というカリキュラムで、北海道にある競走馬の繁殖・育成・調教を手掛ける総合牧場ノーザンファームに研修に行きました。数々の名馬を世に送り出してきた競馬界の名門中の名門に受け入れてもらえたのは、宮田さんの父親が理由です。

競馬好きが高じてノーザンファームの前身、社台ファームで一口馬主(一頭の競走馬を複数名で分割保有する手法)をしていた父親は、毎年のようにノーザンファームに競走馬を見に行くツアーに参加していました。そこでノーザンファームの社長である吉田勝已さんに「息子が馬の業界に行きたがっているんだけど」と話したところ、「じゃあ、一回研修に来なよ」という話になったそう。

この時の研修が縁となり、大学卒業後の2003年、ノーザンファームではたらくことになりました。それが、夢をかなえるための第一歩です。

調教師になるには、JRA(日本中央競馬会)が実施する調教師の資格試験に合格しなくてはなりません。そして、その試験を受けるためには、JRAが運営する競馬学校の厩務員課程を出ている必要があります。厩務員過程を受験するにはいくつかの条件があり、宮田さんの学生時代には「牧場での勤務経験」が必須でした(現在の募集要項については競馬学校のホームページを確認してください)。その条件をクリアするために、ノーザンファームに就職したのです。

ノーザンファームは繁殖厩舎、生後6カ月から1歳半までの馬を預かる厩舎、1歳から2歳で迎えるデビューまで育成する厩舎の3つに分かれており、宮田さんは育成厩舎に配属されました。育成厩舎には馬が40頭ほどいて、8、9人のスタッフでデビューに向けたトレーニングをします。具体的には夏から1年かけて鞍をつけ、人を乗せて、レースで走れる状態にするのが仕事です。

美浦トレーニングセンターで厩務員に

北海道で約1年をかけて若い馬を育てるというと、どこかほのぼのとしたイメージがありますが、実際の現場は厳しいものでした。

「育成厩舎にいる馬は、人を乗せたことがありません。初めて人を乗せるから暴れる馬も多くて、何度も落馬しました。幸い、大きな怪我はせずに済みましたけど怖かったですよ。最後まで人を乗せるのを嫌がって競走馬になれない馬もいますし、けっこうしんどかったですね」

泥だらけになりながら2年を過ごした後、競馬学校の厩務員課程を受験。一次試験はペーパーテスト、二次試験は競馬学校で面接と乗馬の実技があります。宮田さんが受験した当時、厩務員過程は人気があって倍率が高かったこともあり、最初は一次試験で落ちてしまいました。これはまずいと気を引き締めて半年後の試験に臨み、2度目で無事に合格することができました。

競馬学校の学生は半年間、千葉県白井市にある校舎で学びます。ここで毎日のように乗馬の訓練をしながら、馬全般と競馬についての知識を叩き込まれます。その課程を修了し、さらに日本調教師会が実施する採用試験に合格した後、晴れて厩務員になる資格を得るのです。

茨城県美浦と滋賀県栗東にJRAのトレーニング・センターがあり、それぞれ約100人の調教師が厩舎を構えています。厩務員課程の修了生は、日本調教師会を通して新人を求めている調教師の厩舎で仕事を得ます。宮田さんは2006年、美浦にある栗田博憲調教師のもとではたらき始めました。

各厩舎はピラミッド型の組織になっていて、トップに調教師、次に調教師をサポートする調教助手がいて、その下に調教も担当する調教厩務員と馬の世話だけをする厩務員がいます。調教師を目指す宮田さんは、調教厩務員に就きました。

暗黒時代の幕あけ

調教師は、平均して一人20頭の馬を見ています。新人調教師は14頭、16頭のこともあり、実績のある調教師は最大28頭を抱えます。すべての馬は馬主から安くない金額で預けられているので、責任を持ってレースに臨ませる必要があります。

調教厩務員は二頭の馬を任され、調教師や調教助手の指示を受けながらトレーニングを積み、レースに向けて仕上げていきます。この仕事は、ノーザンファームの育成厩舎とはまったく質が異なる緊張感があったそう。

「一番大切なのは馬の健康管理ですね。小さな傷でも見逃したら次の日にぼっこり腫れてたり、ばい菌が入って感染症を起こしたりするんです。そういうことが頻発する世界なので、気が抜けません。毎日丁寧に馬の脚を触って、今日は大丈夫だよなって確認します」

馬の体調は不安定で、出走直前に発熱したりケガをしたりするのも日常茶飯事。そうならないようにしっかりとトレーニングしながら万全の体調に整えるのは、簡単なことではありませんでした。

JRAでは馬が勝利すると、賞金の10%が調教師に、5%が厩務員に分配される仕組みになっています。日本のレースでは最高額の賞金が3億円だから、厩務員にも1500万円が支払われる計算です。海外では賞金が20億円を超えるサウジカップなどがあり、日本馬も参戦しています。担当する馬が活躍した時は得るものも大きいのです。

宮田さんが担当した馬が初めて勝利したのは、栗田厩舎で仕事を始めてすぐの6月、クレヨンルージュという馬でした。幸先の良い滑り出しに思えましたが、間もなくして暗黒時代の幕が開けます。勝てない。なにをやっても勝てない。どうしても勝てない。担当する馬がことごとく敗れ、気付けば1年以上経っていました。

転機となったノーザンファーム訪問

キャリアの浅い調教厩務員とはいえども、担当馬を勝たせるために最大限の努力が求められます。勝てなければ、責任を問われます。宮田さんは穴の開いた風船のようにみるみる自信を失っていき、そのうち、こう思うようになりました。

「腕が達者な人に乗ってもらって、俺は世話だけした方が馬にとっていいんじゃないかな……」

そしてある日、自ら「馬には乗らず、厩務員に専念する」と栗田調教師に申し出ました。それは、調教師の夢を諦めるということでもありました。ずっと応援してくれていた父親と顔を合わせた時、「馬乗り、やめるわ」と話すと、「そっか……」と寂しそうな表情を浮かべたそうです。

夢を手放したことで抜け殻のようになった宮田さんはふと思い立って2008年に休日を使い、ノーザンファームを訪ねました。そこで、打ちのめされます。

「みんな、『うちの馬を勝たせてあげるんだ』ってすごくいい目で仕事をしていて、活気にあふれていたんですよね。ちょっと前まで一緒にはたらいていた仲間の姿を見て、あれ、ずいぶん差がついちゃったなってすごくショックを受けました」

きらきらと輝いて見える仲間と時間を過ごすうちに、どんよりと沈んでいる自分に嫌気がさしてきました。この時、吹っ切れたそうです。

「ここまで落ちたんだし、もうこれ以上はないだろう。もう一回やってみよう」

美浦のトレーニングセンターに戻った宮田さんは、JRAの乗馬施設に通って体を慣らした後、栗田調教師に「もう一回、乗らせてください」と頭を下げました。栗田調教師は「乗りたいなら乗れ」というスタンス。2009年4月、調教厩務員の仕事に戻ることができました。

移籍してから勝てるようになった理由

馬に乗り始めてから3カ月後、縁あって田島俊明厩舎に移籍。田島調教師はおおらかな性格で、細かなことに口を出さない人柄でした。調教厩務員に戻ったばかりで、最後の勝利から2年半のブランクがある宮田さんにも、「好きなようにやってみたらいいよ」と馬を任せてくれたのです。

それを意気に感じた宮田さんは、これまでになく真剣に馬と向き合い、勝たせるために何ができるかを必死に考えました。すると、レースで意外な結果が出ました。まったく人気のなかったある馬がよく走って勝ち、万馬券を出したのです。宮田さんも予想していなかったこの勝利の後、少しずつ勝利のペースが上がっていきました。それは、目の前を厚く覆っていた霧が晴れていくような感覚でした。

「この仕事の主役は馬なんですけど、結果が出なかった時、僕が気にしていたのは人の目でした。周りから何か言われないように仕事をしてる感じになっちゃって。でも、それがダメだと気付いて、田島先生のところでは意識をガラッと変えました。誰に何を言われても、馬のために良いと思うことを徹底してやろうって切り替えられたのが大きかったと思います」

田島調教師からの評価も高く、2年目には調教助手に昇進。調教助手は個別の馬を見るのではなく、厩舎にいる20頭の馬をまんべんなく見て調教厩務員にアドバイスをしたり、時には調教師に代わって指示を出す役割です。一度は諦めた調教師への道が再び拓けたようで、宮田さんはますます熱心に仕事に励みました。

調教師になって成功することを目指すなら

調教助手になると田島調教師からの信頼はさらに厚くなり、厩舎の番頭のような立場で腕を振るうようになりました。その恩師から「調教師になったら?」と背中を押されて、初めて調教師の試験を受けたのが2012年のことです。

調教師の試験は毎年約100人が受験。明確な合格ラインがあるわけではなく、70歳で定年退職を迎える調教師の人数と入れ替わる形で合否が判断されるので、例えば3人が定年退職した年の合格者は3人のみ。調教師になる年齢はバラバラで、定年退職するのは毎年数人程度なので、調教師試験の合格者も数名という合格率わずか数%の超難関です。一次試験は馬の生態や馬術、競馬法規に関する難解な筆記試験で、二次試験は30分の面接が4セット。大半の受験生と同じく、宮田さんは最初の年、一次試験で落ちました。

しかし、夢の調教師まであと一歩と思えば、勉強にも熱が入る。翌年、二度目のチャレンジで筆記試験に合格。面接で惜しくも落選しましたが、ついに調教師という仕事に指先がかかりました。

このタイミングで、名門として知られる国枝栄厩舎から誘いを受けました。田島調教師に恩義を感じていた宮田さんは一度断ったものの、改めて考え直します。

「国枝厩舎は関東トップクラスです。調教師になることではなく、調教師になって成功することを目指すなら、そこにいるレベルの高い馬たちと大きなレースにチャレンジする経験は間違いなくプラスになるだろうと考えました」

宮田さんは田島調教師に自分の想いを正直に伝え、2014年、調教助手として国枝栄厩舎に移籍しました。新天地で仕事を始めて早々、衝撃を受けたと言います。馬のレベルがそれまでと桁違いで、騎乗した時に馬のパワーとスピードに圧倒されたのです。最初のころは自分の筋力、技術が追い付かず、国枝調教師にも「大丈夫か?」と心配されたと言います。

仕事をしながら気付いた人に負けない強み

宮田さんは「この移籍は失敗だったか……」とまた自信を失いかけましたが、今度は馬が居場所を作ってくれました。移籍してから担当のスタッフとともに目をかけてきた馬、ダノンプラチナが、早々に最高格付けのG1レースで勝利したのです。

調教の世界では、なによりも結果がモノをいいます。宮田さんは、この結果で一息つくことができました。ダノンプラチナは翌年も大きなレース(G3)で勝利し、香港で行われる国際大会にも出場。もう1頭、宮田さんがサポートしていた馬ロジチャリスも好成績を残したことで、国枝厩舎でも認められる存在になっていきました。

「国枝厩舎にくるまでは大きなレースで勝つ馬に乗ったことがなかったから、トップ厩舎に行った時に通用するのか不安もありました。そこで、あの二頭が僕の調教担当馬になったっていうのは、やっぱり運が良かったというか、いい縁にめぐまれたなと思いますよね。仕事のパートナーが馬っていう大きな動物で思い通りにいかないことの方が多い中で、この二頭が活躍してくれて先生や厩舎のスタッフの信頼も得られました。目の前の結果に一喜一憂しすぎず、人目を気にせず、馬のために良いと思うことをするという俺の仕事のスタイルは上でも通用するんだなと感じさせてくれました」

仕事に慣れてきた時、宮田さんは将来を見据えて一つの決断をしました。自分が調教した馬を勝たせるのではなく、調教を担当するスタッフと馬、どちらにも寄り添って力を引き出すマネジメントに徹しようと考えたのです。

「調教スタッフが困っていたり馬が不安そうな場面でちょっと手を貸してあげると落ち着いたりするんです。調教助手になってフォローする立場になった時に、自分はそういう気遣いが得意だと気付きました。それができるのはきっと、なにをやってもうまくいかなかったどん底時代があったからです。この気遣いは大勢のスタッフとチームで戦う調教師になった時にこそ活きる、人に負けない強みだと気づきました」

国枝厩舎に来てからも、年に一度の調教師試験を受け続けていました。3回目から6回目までは落選。迎えた7回目、ようやく、喉から手が出るほど欲しかった合格の知らせを受け取りました。2006年に調教厩務員になってから12年、気が遠くなる道のりでしたが、諦めるつもりはなかったといいます。

「ゴールが見えないきつさというか、いつまで続くんだろうと思いながら勉強をしてきました。毎年9月に一次試験があるんですけど、そのころになるとストレスでニキビとか口内炎ができるんですよ。でも、早く調教師になって自分らしいマネジメントスタイルで勝負をしたいと思っていたから、諦めるという選択肢はありませんでした」

不思議な縁で原点に立ち返る

調教師の免許を取得した後は、およそ1年半の準備期間を経て独立します。約5年間勤めた国枝厩舎で最高の思い出は、調教師免許を取って半年後に訪れました。

2019年3月30日、UAEのドバイで開催された国際レース「ドバイターフ」で、宮田さんが担当スタッフと共にデビュー前から世話をしてきたアーモンドアイが優勝し、賞金約4億円を獲得したのです。白い民族衣装を着た6万人の観衆で埋まったドバイでのナイターレースは、それまでの競馬人生のなかでも別世界の煌びやかさでした。

そして2020年4月、ついに独立。トレーニングセンターにある厩舎の数は一定で、新人の調教師は定年退職した調教師が使っていた厩舎に入ります。割り当てられたのは偶然にも、前年に引退していた栗田博憲調教師の厩舎、「人生で一番つらい時期」を過ごした場所でした。宮田さんはそこで「ピリッとした緊張感」を味わいながら、不思議な縁を感じたといいます。

まさに原点に立ち返る形で始動した調教師としての道は、冒頭に記した通り、好スタートを切りました。しかし、宮田さんの調教師としてのレースはまだ始まったばかり。宮田さんが目指すのは、世界の舞台です。

「日本ももちろん素晴らしい競馬場がたくさんあるんですけど、ドバイで見た景色はやっぱり世界を獲った瞬間だったので、格別でした。それに、海外に行くと使っていい道具も違うし、使っていい調教コースも違うので、普段と違った環境で仕事することで成長させてくれるという実感もあります。今度は、自分が調教師としてうちのスタッフを連れていってあげたいですね」

(文:川内イオ 撮影:小池大介)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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